うちの奥さまが持ち出したのは「考えていることを文章に変換する手間」ということだった。たとえば、リンゴがあるとする。王林でいい。でいいってなんだ。俺がリンゴを病的に好きで、リンゴのどこがおいしいかを文章にするとする。シャキッとした歯ごたえと甘酸っぱさ、そして噛むにしたがいほどよく広がる自然な甘さが好きだとして。
「じゃあ友だちにしゃべるようにそのまま書きゃいいじゃん」
俺は例のごとく言う。つまり「リンゴちょううまい。シャキッとしててまじうまい。甘酸っぱくてうまい。噛むと甘い。リンゴ最高。死ぬ。むしろリンゴ食うために生きる。やっぱり死ぬぅぅぅン」とか書く。
「あんたみたいに脳と指が直結してどーぶつみたいに文章書く人間と一緒にすんな。だからあんたの文章はなにいってんだかわかんねーんだ」
叱られた。
うちの奥さまが言うには、こういうことらしい。
しゃべるっていうのは、原則的には、口に出た瞬間には、すでにその場にあわせたかたちで最適化されている。相手がいて、その相手がなにを好きであるか、自分についてどれだけの情報を持っているか、共有されている情報はなにか。そうしたものが「あらかじめ」考慮されたかたちでしか出てこない。だからそれをそのままに文章にできる人はあまりいない。相手が存在しないのだし、自分が書いた文章に不足しているもの、説明が過剰である部分について意識しだしてしまったらそうそう書けるものではない。
だから「会話するようにして書け」っていうのは無意味だ、ということになるらしい。
A cosplayer in wonderfestival2009(Summer) (via rhythmsift)
(via theyearwas91)